2009年05月20日

髪の一房にさえ ―リーメンシュナイダーを求めて(ヴュルツブルク編I) 

※博物館・美術館内での作品撮影は許可をいただいております。
 フラッシュ禁止のため、ピンボケ写真ばかりです。ゴメンナサイ。


ティルマン・リーメンシュナイダー(1460年頃-1531年)の手による彫像は、同時代の彫像とは一線を化した繊細な表情と豊かな内面性を持っている。
豊かに流れる髪の一房にさえ感情がある。
衣の流れ、指の小さな皺にすら現われている憂い。
輪郭だけが彫られた眼からも悲しみの感情があふれている。
よく知られた話であるが、クレクリンゲンの祭壇「聖母被昇天」が19世紀初めに発見されるまで、彼の存在は忘れ去られていたという。
ヴュルツブルクの市長となり、ヴュルツブルクに尽くしてきたリーメンシュナイダーだったが、ドイツ農民戦争の際、農民側についたかどで捕らえられた。
拷問によりその腕や指が砕かれ、二度と彫刻をすることのできない体にされたと聞く。
彼の彫像を見ていると、この悲劇的な逸話がなんとも真実味を帯びてくる。

リーメンシュナイダーの作品は以前から美術書や旅行ガイドで目にしていた。
しかし彼の作品に恋というほどの感情を抱いたのは、図書館で見つけた一冊の本に出ていた「髭のないアダム」に出会ってからだった。
それは2007年の11月末のこと。
それ以来、本物のアダムに会うことが私の小さな夢の一つとなった。


ヴュルツブルクのホテルからの眺めは、まるで一枚の絵葉書のようだった。
リーメンシュナイダーがかつて幽閉されていたというマリエンベルク要塞がよく見える。
私の一番の目的はマリエンベルク内にあるマインフランケン博物館にあるアダムに会うこと。
そしてこの街の教会に安置されているリーメンシュナイダー作の聖像と墓碑を可能な限り見て回ることだった。
ヴュルツブルクに滞在できるのはたった一日半。
教会は夕刻には閉まってしまうので、全部見られるかどうか…。
数日前までひどく痛んでいた脚で要塞まで登るのは容易ではなかったが、脚の不調などどうでもよくなるほど心は燃えていた。
博物館に入るなり「リーメンシュナイダーの作品はどこですか」などと聞いた私に、館員さんは苦笑しているように見えた…きっとこんな質問をする人々が沢山訪れているに違いない。
階段を登ると、すぐにリーメンシュナイダーのコレクションが見つかった。
どの作品も 一目でリーメンシュナイダーの手によるもの(一部工房作)と分かる…なんという強烈な個性!
そして、入口からまっすぐ行ったところにアダム(1492-1493年)がいた。
美術書の写真ではある一定の方向から写されたものしか見れないが、本物を前にすれば様々な角度からその表情をみることができる。
実物のアダムの美しさと憂いを帯びた表情は、私の想像を凌駕していた。
これはなんだろう、私の体へと流れ込んでくる感情は。
このアダムの何がこうも私を惹きつけるのだろう。

アダム

アダム

アダムの横には、その右手に小さな知恵の木の実をしっかりと握ったエバがいた。
脚には彼女を誘惑した蛇が絡みついている。

エバ

アダムとエバに交互に見入っていると、後ろから英語で声を掛けてきた女性がいた。
「そのアダムとエバは本物です。マリア礼拝堂にあるのはコピーなんですよ。」
館員さんかと思ったら、私と同じ鑑賞者であった。
私があまりに夢中になって見ていたから、声を掛けたくなったのだろう。
その部屋には1時間ばかりいただろうか。
コレクションのいくつかを以下にご紹介する。

★「悲しみのマリア」(1505年頃)

悲しみのマリア

十字架に架けられたわが子を見つめる聖母。
この表情はなんとも忘れ難い。

★「悲しみの聖ヨハネ」(1490年頃)

悲しみの聖ヨハネ

こちらも十字架を囲む人々のひとり、聖ヨハネ(使徒)。
口元の表情、合わされた手、衣のドレープ、すべてが悲しんでいる。

★「エッケ・ホモ(この人を見よ)」 (1515年頃・工房作)

エッケ・ホモ

鞭打ちを受け、茨の冠を被せられたイエスをローマ総督ピラトが祭司長と群衆の前に引き出す。
「わたしはこの男に何の罪も見いだせない。」
しかし人々はイエスを激しく訴えた。

★「聖セバスティアン」(1515年頃・工房作)

聖セバスティアン

聖セバスティアンについての詳細はこちら
この浮き上がった手の血管、指の皺、爪の表情!

★★★

時間を持て余していた相方が、私を「ちょいちょい」と呼び、壁にあった解説を指さす。
「ほら、ここにバンベルクの大聖堂にミニチュアシュナウザー(彼はリーメンシュナイダーをこう呼ぶ…)の彫った皇帝の墓があると書いてある。あんたもバンベルクに行きたくなったじゃろ?明日ニュルンベルクに行く前に途中下車するぞ。」
実は彼はバンベルクの燻製ビールを飲みに行きたかったのだった。
私はニュルンベルクでなるべく時間を取りたかったため、バンベルクでの途中下車には反対していたのだが…これではもう行くしかないではないか。
かくして、リーメンシュナイダーを求め歩く旅は始まった。

ヴュルツブルク編IIに続く…。

参考文献:Mainfraenkisches Museum Wuerzburg Riemenschneider Collection

★★★

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旅行疲れか?相方が先週末から喉の痛みを訴えておりました。
インフルエンザかと思いビビりましたけど、ただの風邪でした。
疲れたのも分かるわ・・・後半ほとんど私に付き合わされて(笑)

posted by Fu Shusei | Comment(6) | TrackBack(0) | 芸術的呟き
この記事へのコメント
悲しみについて考えます
世界の半分は多分
悲しみでできているんじゃないかと思うんだよ
あまりに大きな波だから
飲み込まれそうになって
一大事に思ってしまうけれど
そうじゃなくて
音もない
声もない
動きもない場所に
密かにいつも息づいている
それが悲しみなんだし
すぐそばにあって痛いほど普遍だから
馴染んでしまおうと。

そんな考えが
やはり合っていたんだなあと
写真を見て思いました
Posted by メロ at 2009年05月20日
★メロちゃん★

何故「悲しみ」がこんなに辛いかというと
それはその感情を「受け入れがたいもの」と感じるからじゃないかと思うの。

>すぐそばにあって痛いほど普遍だから
馴染んでしまおうと。

苦しみのはてに悲しみを受容する、受容した自分をそのまま差し出す…悲しみのマリアを見ているとそんなイメージが浮かんできます。

悲しみは海のようにいつもそこにある。
でも、完全な沈黙でも静止状態でもなく、時には引いたり、満ちたりするように感じるのです。
満ちるときはやはり苦しいよ、今でもね。
Posted by Fu Shusei at 2009年05月21日
リーメンシュナイダーのお写真ありがとうございます。
お勧めしていた、残酷な美術品がある城の美術館とは、よく考えてみたらここだったのですね。
どこに何があったのかまぜこぜになってしまっていまして、お写真を見て思い出しました。
そういえば、一緒に行った若い学生たちはリーメンシュナイダーのコーナーなど素通りで、ロビーでかなり待たせて顰蹙を買ったことを思い出しました(笑
こうしてみると、ピンボケ(失礼!)気味なことが却っていい味を醸し出しているのではないでしょうか。
あのコーナーは空気が違うような感じでしたね。
自分的には、その手前のコーナーの聖職者や異端が首をはねられている絵の数々が、頭にこびりついてしまっています。

バンベルクのラオホ・ビールは香ばしくておいしいです。
ビール嫌いの自分も、ドイツですっかりビール好きになって帰ってきたくらいです。
大聖堂とたくさんの教会巡礼とセットで楽しめると思います。

ニュルンベルクのソーセージ屋さん、というかビアレストランの奥に入って行って買って食べるのですが、名前が思い出せません。
ただ、となりの教会は確か「聖ゼバルドゥス」だったと思います。
Posted by りりか at 2009年05月22日
★りりかさん★

>若い学生たちはリーメンシュナイダーのコーナーなど素通りで

私が行ったときも、カップルさんに思い切り素通りされてました。
興味がない方には魅力あるものとして映らないのでしょうね、私もルーベンスのときはそうですから^^;(好きな方には申し訳ないのですが、生理的に苦手なのです。)

>その手前のコーナーの聖職者や異端が首をはねられている絵

聖キリアンの殉教(斬首)の絵ですね、確か2,3枚ありましたね。
あのエリアはかなりインパクトがありました!
スプラッタがダメな方が見たら、夢に見そうな…

バンベルクのビールは本当においしかったです。
私は黒ビール以外のビールは飲まない人だったんですが、全然飽きがきませんでした♪

>ニュルンベルクのソーセージ屋さん、というかビアレストランの奥に入って行って買って食べるのですが、名前が思い出せません。

もしかして、ブラートヴルストホイスレではありませんか?
ちょっと下の記事の写真のお店です。
最初、テイクアウトにしようと思ったのですが(その方が安いので)、シュパーゲルがお安くなっていたので、中で食べました。
安いだけあって、やせっぽちのシュパーゲルでした(笑)
Posted by Fu Shusei at 2009年05月22日
心惹かれるのは
アダムが神の似姿だからかな。
Posted by acqua at 2009年05月23日
★acqua姉さん★

髭のない、まだ少年のようなアダム。
幼い人類の象徴。
生まれたばかりの「人間」が神の禁を破ってしまった悲しさが表れている…そんな気がします。
このアダムの憂いが、「新しいアダム」イエスによって、取り去られる。
この憂いの表情こそ、イエス・キリストによる救いの希望の「序章」のように感じられます。
Posted by Fu Shusei at 2009年05月25日
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