マリエンベルク要塞を降りた後、聖ブルカート教会に向かった。
教会の入り口付近には大勢の若い学生たちがいた。
彼らを掻き分けるようにして教会の内部に入ると、そこは静謐な祈りの空間であった。
私たち2人以外には誰もいない。
リーメンシュナイダーの聖母子像はガラスのケースに収められていた。
美しい彩色が施された聖母子像(1490年)だ。

わが子に触れる聖母のやわらかそうな手。
優しい、しかし、こころなしか寂しそうな表情の聖母。
じっと母をみつめる幼子イエス。
幼子の手や足の指はぷっくりとしていて、本物の赤ん坊のようだ。
そこから左側の祭壇のほうへと目をやると、その前の中空には磔刑像が掛けられている。
あの愛らしい幼子の30数年後の姿。
磔刑像を無言のうちに見つめていたとき、聖堂内の沈黙が破られた。
さきほどの学生たちが教会に次々と入ってくる。
みな一様にプリントと筆記具を手にしていた。
学校の課題で見学に訪れたのだろうか。
私たちは教会を去り、ケッペレに向かうことにした。(ケッペレについては、また後日。)
幾つかの教会を訪れた後、フランツィスカーナ教会に向かった。
入口が見つからない。
きっと反対側に回れば開いている…そう思い、裏手の扉に向かったが、押しても引いても開かない。
すると、通りがかりの女性が「入口はあっちですよ」と教えてくれた。
聖堂とは別の入り口があったのだ。
廊下には小さな聖画やフランシスコ会のブラザーの写真入りカードが売られている。
聖堂内に入ると、すぐにリーメンシュナイダーの手によるピエタが目に入った。


私はこのピエタにショックを受けてしまった。
力なくだらりとした、蒼ざめたイエスの体。
太い茨の冠が被せられた頭からは血が滴り落ちている。
天を仰ぐ聖母の泣きはらした目…左手は心の苦しみを抑えるかのように胸の上あたりに置かれている。
しかし、右手はしっかりと死んだ我が子を支えている。
聖母の衣は愛と犠牲の赤、流された血の赤だ。
リーメンシュナイダーとは何者だろう…このようなピエタを生み出した彫刻家は!
さきほどの無人販売のカード・スタンドからピエタの写真が印刷された聖母への祈り(「苦悩の神の母よ、どうか私たちのために!」)のカードを選び出し、料金箱に小銭を入れた。
誰もいない廊下に、小銭の落ちる音だけが響いていた。

遅めの昼食は、マックの1Euro カプチーノとマリア礼拝堂の近くの店で買った焼きソーセージ。
マインフランケン博物館で私の背後にいた女性が言っていた「コピーのアダムとエバ」を眺めながら食べる。
彼らは楽園を追放されて、アダムは呪われた土を耕すものとなった。
―お前は顔に汗を流してパンを得る。
土に返るときまで。
お前がそこから取られた土に。
塵にすぎないお前は塵に返る。― (創世記より)
焼きソーセージを挟んだ硬いパンからぽろぽろと落ちる屑を、丸々と太った鳩たちが啄ばんでいく。
マリア礼拝堂の後陣にはリーメンシュナイダー作のコンラート・フォン・シャウムベルクの墓碑のレリーフ(1499-1500年)がある。

この美しい巻き毛の騎士はエルサレムから戻る際に亡くなった従者だという。
はるか昔に亡くなった彼の墓碑の前に、東洋の端っこからやってきた私が佇んでいる…なんと奇妙な。
この日の締めくくりに、聖キリアン大聖堂を訪れた。
リーメンシュナイダーの特徴がはっきりと表れているレリーフは容易に探すことができた。
ルドルフ・フォン・シェレンベルク司教の顔はまるで生きているようであった!
いかめしく、頑固で、威厳のある表情。
なんだかいまにも目がギョロリと動きそう。
生命のない彫像であるはずなのに、なぜかその前で委縮してしまう。
大聖堂の入り口には「ミサ中は歩き回らないこと」、そして「写真撮影は禁止されています」との注意書きがあった。
お願いすれば撮影許可が下りたかもしれないが、聞くべき人も見当たらず、司祭館や事務室がどこにあるかも分からない。
事前に調べておくべきだった…残念だ。
残念といえば、リーメンシュナイダーの聖母子像があるノイミュンスター教会(聖キリアンの殉教地にクリプタがあるらしい)は、2009年半ばまでリノベーション中とのことで入ることができなかった。
あまりに濃い1日で、この日は疲れて(でも、心地よい充足感とともに)ぐっすりと眠ることができた。
バンベルク&ニュルンベルク編に続く。
参考文献:Tilman Riemenschneider und seine Werkstatt
★★★


ここはケッペレに行く前にちょっと一休みくらいの気持ちで尋ねたのですが、とんでもなかったですね。
もうすでに中心部の巡礼が済んで歩き疲れていたにもかかわらず、しばしこの像の前で立ち尽くしていました。
イタリア人のおば様たちが陽気に見学していましたが、ケッペレとはまた違う感じの静かな空間でした。
私もこのマリア像の写真を何枚か撮りましたが、残念なことにガラスケースに窓が反射してしまうんですよね。
でも、久々にあのマリア様に会えてとてもうれしかったです。
次の更新を楽しみにしています。
頭も体もいっぱい使うと
ああ本来このくらい使うべきなんだ(笑)
っていうか
世界ってこんなに深いんだって
感じるよね
そしてものすごく、それこそ深く
眠れるよね
何も感じない
全く動かない日があるからこそ
なんだけどね
良い旅だ!
受洗30年のいま、また同じようなショックを受けている。
母親というものを受け入れられなかった私に、
PIETAは残酷なまでに母の愛を見せ付けた。
大きな子どもを預かったような気づきの中で、
お腹を痛めずして「母」というものが分かりかけてきた気がする。
相方の具合が悪くて、ホスピタル・ショッピング中(涙)
聖ブルカート教会の聖母子は、びっくりするくらい美しいですよね。
保存状態があまりにもよくて、これにも驚いたのですが、修復されたものなのかしら…
ガラスに反射している窓の形が、「いかにも教会の窓」ですね(笑)
>次の更新を楽しみにしています。
ことごとく撮影に失敗しておりますけれど(笑)
やはり暗い教会内をフラッシュなしで撮影するのは難しいですね。
蝋燭がともっていると、そちらにピント(?)が合ってブレてしまうようです(*_*;
>ああ本来このくらい使うべきなんだ(笑)
っていうか
世界ってこんなに深いんだって
そうそう、もうほんとにそうなの。
私が生きていくためには こういう旅が必要なのです。
たまに眠ってしまう「感じる心」をガツンと起こすために。
あのテンションのまま、日常に戻るつもりだったんだけどね、ちょっとうまくいってない(苦笑)
日常も神秘と小さな幸せに満ちているのにね。
とりあえず、眠れない原因の一つが極度の運動不足だということは ハッキリしました(笑)
姉さんのコメを読んでいて思ったのは、「ピエタ」は究極の信仰の形ではないかということです。
「受容する」「そのままの自分を差し出す」、そんな言葉が浮かんできます。
芸術家自身にとっても、技術のみならず その信仰の試金石とされる主題じゃないかと思ったりします。
キリストの死と復活、
イエスは完全な神であり完全な人でなくてはならない。
人はみな「女」から生まれるから...
マリアの腕に抱かれて、マリアの腕に戻る。
マリアは33年のイエスとの時間の中で、
どのくらい「母」としていられたのかなぁ...
なんて思います。
>どのくらい「母」としていられたのかなぁ...
そうですね…聖書から伺いしれるのはホンの一部…その中でカナの婚礼の聖母の心づかいと息子への大きな信頼の態度は とても印象的です。
映画「パッション」の中で、確か十字架の道行のシーンの間に挟まれていた映像だったと思いますが(イエスが倒れる場面だったような記憶が…)ちいちゃなイエスが転んで、母マリアが駆け寄っていた場面があったと思います。
あの場面には母の愛と苦悩と大きな悲しみを感じるよ。